
『加賀日和』2号でも紹介した、小松市の原町(現在)生まれの仏御前の足跡が、「安産石」として白山市の木滑に残っている。
絶世の美女で歌舞に優れ、時の最高権力者、平清盛の寵愛を受けた仏御前が、世の無常を悟り、自分が追い落とした形となった、祇王の後を追うように出家し、祇王らと共に嵯峨野の奥(現在の祇王寺)にて精進したとされている。
ここまでは、源平盛衰記などでも記されている有名な話だ。
伝承によると、その後、仏御前は自分の身体に清盛の子を宿ったことに気づき、清盛から拝領した履行(くつはき)阿弥陀如来を背負い、京都を去って、故郷の小松の原町に戻ったとされている。(履行阿弥陀如来は後に慶長年間深譽上人が夢の話で、原から加賀市大聖寺に正覚寺を建立して安置したという)
仏御前は、美濃街道(現在の国道156号)で越前大野に入るルートを辿ったとされている。そこから、勝山街道(現在の国道157号)を通り、小松へと向かうが、白山麓の瀬戸付近で陣痛が始まり、木滑(白山市木滑(きなめり))で出産したとされている。現在、木滑では、仏御前が陣痛を堪えて出産するためにしがみついたとされる岩が安置されている。この石は安産に霊験あらたかで、安産祈願の石として村人に崇められてきた。正面からだと手が届きにくいので、堂の横に窓があり、手を入れて触れられるようになっている。
仏御前が何故、道の状態が良かったであろう北陸道はなく、山中を通る険しい街道を選んだかは諸説あるようだが、おそらくは絶世の美女であった仏御前が往来の多い北陸道を歩くと、何かと危険が多いと考え、人目につきにくい山道を選んだのだろう。
さて、残念ながら、赤ちゃんは発育不良で生後間もなく亡くなり、仏御前は、子供の菩提を弔うために木滑に半年ほど滞在した後に、故郷の原町に戻ったとされている。

木滑神社の狛犬は、ちょっと愛嬌のあるお顔をしていた。

静かな静かな木滑神社の参道。
ところで、これも伝承だが、18歳で故郷の原に戻った仏御前は、生きていくために村で茶屋を開いたそうだ。とにかく絶世の美女である。茶屋はとても繁盛したという。でも、その一方で仏御前に現を抜かした男衆の仕事が疎かになり、また村の風紀が乱れるようになり、最後には村の女衆が山中に仏御前を呼び出して、無残にも殺されてしまったという。治承4(1180)年8月18日、享年22歳とされている。
●石川県白山市木滑(きなめり)











